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[53] 教育の話し
日時: 2009/08/07 19:53
名前: 天橋立の愚痴人間

教育会議なる馬鹿の集まりが、馬鹿にふさわしい馬鹿な提言をまとめた。

曰く PTAに父親も参加すべし。

曰く 赤ん坊は、母親がおっぱいを飲まし、子守唄を歌うこと。


最早、会議そのものを解散し、かかった費用は彼らから徴収すべきである。
さすがに、政府もこれを発表する事は参院選のためにはならないと提言を差し戻したらしい。
またある議員は、おっぱいの出ない人に対して差別発言であるような理由をつけたらしい。

差し戻す理由も理由であるが、こんな馬鹿共を任命した責任も取ってもらわねばならない。

こんな連中が何を考えているか、知れたものではない。
こんな連中に教育改革を担当する資格はないのである。

つでに言っておきますが、マスコミに取材を受けた主婦達の反応は、そんなことはもとより解っている、大きな御世話というのが圧倒的であった。


どんどん入ってくる日本崩壊のニュースに、まとうな精神で対処していれば疲れてしまいます。

人生を振り返るに、今日ほど、愚劣な出来事が連続した記憶はありません。
管理人さんの考えは当たっているようです。
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教育改革私案 ( No.1 )
日時: 2009/08/07 19:55
名前: 天の橋立の愚痴人間

1 小学校と中学校を一貫教育課程にし、学区を広げ、一学年の定員を60〜100人程度とする。

2 クラス編成は30〜40人とし、担任と副担任の2人で指導する。

3 教師の養成には時間をかける。具体的には大学過程を終えたのち1年くらいの実習の期間を設け、複数のベテラン教師の指導のもとに教育者としての基本的な能力を付けさせる。

4 教師自身の理念を醸成させるため、教師間で意見交換活発にする環境を整える。互いに相手を干渉しないで個人の世界に小さく固まる現在の教師の精神の有様を解消する。

5 一般の社会人経験者の中途採用の枠を広げ、全教師の20%くらいとし、採用の年齢制限はなしとする。

6 小中の9学年が基本であるが、別に10学年を設定して、希望者に対しては1年間の延長をする。

7 教科書は都道府県単位で監修した複数のものから学校単位で採用を決める。

8 小中学校の教育理念を確立し、小学生の間は社会性を見に付けることを第一義とし、中学生では個人のアイデンティティの確立を第一義とする。

9 現在容易に考えられている「平等」と「自主性」の概念を再考し、教師自身が本来の意味を取得するように教師を教育する。

10 人間の歴史の教育を充実させ、生徒が社会の有様を十分に認識するような教育に重点を置く。

11 子供に悪影響を与える、テレビや雑誌などの内容の規制を強化しする。大人社会の不自由も、この限りにおいてはあえて受け入れる。


12 総じて学校や教師の裁量権を拡大するが、そのための条件、教師の教育や理念をおろそかにする場合の懲罰の規定をはっきりとさせる。



学校の規模をあえて大きく設定したのは、小さな学校では容易に学校全体を牛耳るいじめ集団が形成されやすい。

これを防ぐと共に、教師の方も人数的に一部のいじめ手段に対応する能力が増す事になる。

子供の社会性も大きく伸び、また上下の年齢さが大きい事は、上級生が年少のものをいたわる心の醸成にもつながる。

問題は、特に地方などで、大規模を維持する事の困難が予想されるが、スクールバスなどの確保で対処する。

子供の教育にも少し金をかけても、長い将来を見れば有効なものであり、特に当面、荒れた教育を再生するためには止むを得ない。
 

メンテ
糾弾管理人さんの記事 ( No.2 )
日時: 2009/08/10 17:52
名前: 天の橋立の愚痴人間

これは3年くらい前に、ヨーロッパに住んでおられる管理人さんへ、当地の教育の話を御願いしたときのレスです。



だいぶ前の事になりますが、日本のテレビ番組の依頼で、小学校の休み時間での遊びのビデオを撮りに行くことになりました。 特に急ぐような取材ではありませんでしたが、近くの友人の娘が通っている学校に行き、校長に話しましたら、即、OK。 2クラスを急遽お休みにし、自由に遊んでよい、と言うことに成りました。

子供たちは授業が急に休憩時間になった事で大喜び。 それぞれ遊んでいる所を一時間にわたって撮影させてもらいました。 なんという自由さ、奔放さ。 あっと言う間に取材を終えてしまいました。 当地の校長は実に自由だと思いました。

もし日本で同じような依頼を受けたらどうなるでしょう。 本人たちの承諾、親の承諾、教育委員会への連絡、授業時間をつぶせないので取材は放課後になるのでしょうか。 その前に書面での依頼などもあるかもしれません。 かなり面倒なことになる事は想像できます。

校長はそれぞれの学校で選挙と言うか先生の話し合いで決まり、年齢に関係なく適任者がすることになっています。 校長自身がクラスを持っていることもあり、ヤクルトの古田状態です。 先日、国立大学のある学部の学部長と話していたのですが、やはり持ち回りで3年が任期だと言ってました。 歴代の学部長を知ってますが、一度するとヤレヤレと言う感じです。

教育委員会なるものはありませんし、教科書は先生が選び、検定などもありません。 教科書は本屋で買い、学校毎の一括しての配布ではありません。 教育基本法なるものはあるのかどうか知りませんが、文部省で決めているのは学制だけで、細かな事は各学校の自由な采配に任されているようです。

校長や学部長などは名誉職ではなく、適任者がするようになっています。 もちろん、年功序列などは論外で、外部からの影響もありません。 成熟している教育環境だと感じます。
メンテ
教師の質 ( No.3 )
日時: 2010/03/25 00:47
名前: 天橋立の愚痴人間

私が関係した、ある小学校の建築に関わる実話。

小学校の校舎などの増築工事をする場合、工事関係者は子供の安全確保や騒音の問題で神経を尖らせるものである。

工事にかかる前に、工事用車両が出入りする箇所を決めねばならない。
それを基点に工事範囲を子供などが立ちいらないよう囲いを作ってから工事を始めるのである。

どの場所を工事用車両の進入路とし、工事に使用する範囲を設定するに際して、学校の教師や生徒の活動をできるだけ妨げないように計画し、学校とも打ち合わせて決めるのである。

このケースでも、そうして仮設計画をつくり学校側の了解も得ていた。

ところが後日になって、学校側から一部の子供が給食を取りに行くのに、この計画ではかなり長い距離を歩かねばならない生徒ができるので、その生徒たちに限り、昼食時には工事現場を横切ることさせて欲しいと要求があった。

市の教育委員会(工事の主体)や建設課の担当者氏は、何とかできないかと工事関係者に伝えてくる。


ちょっと待て!

こんなことは技術的な問題ではない。
小学校の工事のために、大人は格別の注意を払い、真剣で仕事に当たっているいのだ。

子供たちにとって、こういう工事が行われると、それに協力するために、一時期は給食を取りに行くのに我慢をしなければならないことを体得させるのが教育ではないのか。

大人社会の厳しさに対面させることも教育である。

それが、何だ!

子供が給食を取りに行くのに近道となるように、大人社会が生活をかけてやっている工事を一時中断せよとでも言いたいのか。

それを、職員会議でも持ち出した教師がいて、校長が市の教育委員会に申し出て、教育委員会が建設課を通して工事関係者に伝えてくる。

何と言う 人の無さ!
これが教育に携わる人間どもの正体である。


奴らの言うとおりにやれば、せっかく子供にまたとない我慢を言うものを教えられないばかりか、自分たちのために大人が我慢させられている現状を目にして、どんな子供に育って行くか、それが教育か。


ところが、こんな反論を言う私に、市の担当者氏どもは、何故言うとおりに対処しないかと白い目で見てくる始末。

これが、現在の教育界の現状である。

教科書の問題でも、詰め込み教育の問題でも、自主性教育の問題でも何でもない。

単なる教師の資質の問題である。

また、こういう連中が教育論を語る資格もない。
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Re: 教育の話し ( No.4 )
日時: 2011/09/18 12:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3R2ku166

http://d.hatena.ne.jp/msehi/
検証シリーズ5、社会、そして政治に理想を希求する教育を求めて。第4回日本の教育後編『監視社会と克服への道』。

2006年には、新自由主義による教育改革の総括とも言うべき教育基本法案「改正」が安倍政権の下で閣議決定され、新しい教育基本法が12月22日に施行された。

改正前の教育基本法の第一条の教育目的では、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」が、改正後は「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」に変化した。
すなわち「個人の価値をたつとび」「自主的精神に充ちた」が削除され、「必要な資質を備えた」が挿入された。
これは、「個人の価値をたつとび、自主的精神に充ちた健全な市民の育成」から「必要な資質を備えた国家に従順な国民の育成」への転換である。(資料参照 http://www.kyokiren.net/_recture/date060428.pdf
 
第二条の教育の目標では、改正前では敢えて愛国心などには言及されていなかったが、改正後は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という目標が新しく条文化され、戦前のように愛国心が敢えて求められた。 

改正前の第六条の教員規程では、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。
このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」が改正後は、「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」に変化した。
すなわち「全体の奉仕者であって」が削除され、「絶えず研究と修養に励み」が挿入されたことで、「国民の望む全体の奉仕者としての教師」から「絶えず研究と修養が課せられる国家の望む教員」へと変化した。 

また改正後の教育基本法では、第十条に家庭教育の項目と第十三条の学校、家庭及び住民等の相互の連携協力が新設され、第十条では、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」、第十三条では、「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と規定された。
 確かに家庭教育や地域教育は重要であるが、現場の学校や教師が創意工夫で取り組むべきものであり、このように条文化されれば、国家や行政の家庭や地域への介入となる。
特に有事の際は、学校、家庭、地域の相互監視システムとして機能し、翼賛社会を形成することになる。 

さらに改正前の第十条の教育行政では、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」が、改正後の第一六条では「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」に変化した。
 教育行政において敢えて、「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」を削除し、不当な支配を判断するのは教育行政としたことは、戦前の教育行政の教育内容への介入を認めたことに他ならない。

事実、前の文部科学大臣河村建夫は「平成の教育勅語を念頭において議論したい」と発言している。(読売新聞1999年8月11日)
 このように教育の国家支配管理が強力に求められた理由は、現在の世界を支配する新自由主義が、弱肉強食の競争を求め、戦前のファシズムが復活しつつあるからだ。
 それを裏ずけるように、既に盗聴法(1998年)、住民基本台帳ネットワーク(2002年)、有事法(2003年)、個人情報保護法(2005年)など、国民の自由を奪う国家支配管理の強化が整って行った。

 そして国家支配管理の完成が、戦後の教育基本法の改正だった。
 すなわち教育基本法の改正は、ジョージオーエルの小説『1984年』におけるような監視社会への移行を、有事に備えて完成させたと言えよう。
 ジョージオーエルの『1984年』は、新自由主義の辿り着く監視社会を先取りしており、新自由主義の「強者が富めば、弱者へ雫が滴り落ちる」、「(国民へのサービスを高めるために)民間で出来るものはすべて民営化」、そして「原発は安くて、クリーンで安全」といった端的なスローガンは、全体主義帝国オセアニアのエセスローガンと瓜二つである。

 すなわち全体主義帝国オセアニアの三つのスローガンは、「戦争は平和である」、「自由は屈従である」、「無知は力である」からなっている。
そして政府は、オセアニアの平和のために半永久的に戦争を継続する平和省、食料や物資を絶えず欠乏状態にして配給と統制を行う豊富省、プロパガンダに携わり、党の言う事を絶対的真理とするために、歴史的事実も改ざんする真理省、そして反体制分子を尋問と拷問で、最終的に党を愛させるようにした後、処刑を行う愛情省から成り立っている。 
それはまさに、現在の新自由主義社会へのジョージオーエルからの皮肉に聞こえる。

このよう日本の教育が蟻の隙間さえなく新自由主義に支配されているなかでは、正攻法で戦後の「教育基本法」の復活を求めても、政治権力と財力を握る新自由主義に太刀打ちすることは不可能だろう。
もちろん理念としての教育の枠組みを、絶えず求めていくことは必要であるが。
したがって可能性があることから実行に移していくことが重要である。
先ずは文部科学省からの大学への天下りを止めさせることが第一歩であろう。
私が4年前から住民票を復帰させた名古屋市の河村市長は、議員報酬を半減させただけでなく、市の外郭機関の天下りを一掃し、ボランティアなら採用すると言明したことは快挙であった。

もっともこうした勇気ある政治家の行動を、議員も含めて既得権益者は、「やらせメール」のような巧妙な手口でマスメディアも巻き込み、専制主義者のレッテルを貼り葬ろうとした。
しかしそのような権力、財力、そしてマスメディア支配にもかかわらず、河村市長は勝利した。
それは民意が議員報酬が余りにも高いことに怒りを感じていることと、官僚の天下りによって中央支配されることにレッドカードを出しているからに他ならない。
このような民意は、名古屋だけでなく、大阪、新潟などあらゆる地域で湧き上がってきていると言っても過言ではない。

官僚の大学への天下りを止めさせる意義は、教育の中央支配を打破するだけでなく、教育を地域に取り戻す第一歩だからである。
現在の地域利益を求める地域主権の流れにのれば、教育の中央支配を締め出し、地域独自の民主教育を創り出すことも決して難しいことではない。
その場合は、ひたすら地域利益を求めていけば、新自由主義側も反論できないからだ。
例えば地域の奨学金を年間国公立大学授業料の2倍ほどとして、地域で10年間就業する者に対しては、返済免除とすれば地域に若者が集まる筈である。

日本の大学の授業料は世界一高く、国公立大学さえ年間60万円近くするのは、北欧やドイツの無料教育を知る者には考えられないことであり、教育の機会均等に違反しており、そのような地域独自の取り組みには反対できないからだ。
そのようにすれば地域に人材が集い、地域の大学は地域産業振興の中核ともなり得よう。
現在のようなハローワークを通して、中央のプログラムで月10万円も支払って古びた資格の職業教育をしても、それ自体が利権に絡め取られており、お金を溝に捨てるようなものである。
本質的には地域の大学が地域産業の司令室となって、地域に相応しい産業を(例えば太陽光発電、風力発電、そして天然ガスの熱併給発電)を振興するなかで、産業の担い手を育成していくことが重要であろう。

また地域では福祉財源が現在でも枯渇して来ており、これからは益々枯渇し、住民サービスが過激に切り捨てられていくことは目に見えている。
したがって大学入学の選別で、1年間の福祉関係での研修ワーク(生活支給付)に、きわめて有利なインセンティブを与えるように変えていけば、少ない費用で行き届いたサービスを提供することも可能である。
例えばドイツでは、これまで徴兵制義務のある若者の8割が、すなわち20万人を超える若者が福祉関係などの代替役務を選択し、重度の障害者の住まいで1年間長期滞在して、トイレのお世話から会社などへの送迎をしてきた。
そのような弱者への手厚い福祉サービスで、ドイツでは重度の障害者の人でも自立した暮らしが可能だ。

まさにそれが、ドイツの素晴らしい豊かさだ。
(但しドイツの徴兵制は今年7月に、既に事実上徴兵の意味を失っていたことから、また軍備予算の削減とエリート教育の障害となるという産業側の要請で廃止された。当局は若者の福祉への寄与はボランティアで継続できるとしているが、新自由主義教育で育つドイツの若者も日本と同じように実利的で、それを満たすインセンティブなくしては難しいだろう。)
具体的には、3割ほどの加点方式にすれば、現在のように数学が高得点であるから医学部に進学できるとか、高得点ゆえ東大の法科入学で官僚になるという悪しき教育制度も、そのような安易な動機では弱者の長期滞在によるお世話は難しいことから、自ずと是正されていくだろう。

このような地域利益に密着した大学の変革を一歩一歩実践していくなかでは、教育の本質を求めていくことも可能である。
現在の子供たちは、学ぶことへの楽しさや喜びが全く失われているだけでなく、義務的ゆえの関心のなさ、意欲のなさは明白な事実である。
そうした関心や意欲を喚起するため文部科学省でさえ、北欧諸国の国際競争力を高めるグループ授業に着目しており、打開策として取り組もうとしている。
幸いこのグループ授業には、新自由主義支配側にとって死角がある。

すなわち教育指導マニュアルだけでは不十分で、教師の現場での創意工夫が求められることから、教師が本来抱いている理想を発揮することも可能である。
既に第二回のドイツのイェーナプラン学校で述べたように、自主性が尊重され、自由に相互の学び合いと教え合いによって楽しく学ぶことは、関心や意欲を喚起するだけでなく、生徒間の格差を小さくし連帯感を育むこともできる。
そうしたグループ授業のなかでは、どのように新自由主義支配側が国家と産業に奉仕する従順な生徒を育成しようとしても、自ずと理想を求める意見が生徒自身のなかから発せられ、社会、そして政治に理想を希求する教育が沸き上がってくるだろう。

(著者紹介)

関口博之
Sekiguchi Hiroyuki ( Email) msehi888@hotmail.com
      
1947年生まれ。1986年より妙高山麓で農的暮らしを開始する。それ以来毎年のようにドイツを探索し、『アルタナティーフな選択ードイツの分かち合い原理による日本再生論』(越書房)、『よくなるドイツ・悪くなる日本@暮らしと環境』、『よくなるドイツ・わるくなる日本A政治と社会』(地湧社)、『市民利益追求』(越書房)を執筆。2003年より2007年まで母の看病のため妙高山麓に閉じこもる。還暦を契機として2007年4月より2010年9月までベルリンで学ぶ(但し冬季は日本へ帰国)。2007年のドイツは、ドイツ産業の好景気とは対照的に市民の暮らしは急速に悪化し、以前とは変わり果てていた。まさに「悪くなる日本、そしてドイツも」であった。その原因を探索する中で、現在の新自由主義が克服されることなくして、世界は益々悪くなることを痛感。2009年より、『悪魔のルーレット(新自由主義)の克服』をドイツ市民、及びEU市民に訴えるべく、ドイツ語で書き始める。そして2010年帰国後、危機の迫る日本をまのあたりにして、『悪魔のルーレット(新自由主義)の克服』の日本版とも言うべき、ホームページの立ち上げを思いつく。

世界の危機、日本の危機の本質的な解決法


(主張)

世界の現状
世界の危機

環境、金融という共有地が新自由主義によって食い尽くされ、世界は危機に瀕しています。

本質的な解決法

大部分の人たちを不幸にする新自由主義が世界を支配する理由は、現在の化石燃料による産業社会が行き詰まっているからであり、共有地のルール作りと同時に新しい産業社会の創出が必要です。


日本の現状
日本の危機

政権転換が実現し、人を優先する経済を提唱しつつも、財界、官僚の圧力によって、結果的に新自由主義を推し進めようとしています。

本質的な解決方法

従来の公共投資による景気刺激策、法人税減税、消費税値上げといった新自由主義に迎合する政策を破棄して、環境マイレッジ税などを通して地域の地産地消を実現し、新しい産業社会の創出を目標にすることが必要です。
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イエナプラン教育 ( No.5 )
日時: 2011/09/18 12:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3R2ku166

http://altjp.net/classification/article/90

イエナプラン教育

イエナプラン教育は、1923年にドイツのイエナ大学の教育学教授だったペーター・ペーターゼン教授によって、教育実践を通した教育学的な研究として始められました。子どもたちが根幹グループと呼ばれる異年齢のグループで学ぶという試みがその内容であり、この試みはそれから徐々に、6歳から15歳までの学校、幼稚園、特殊教育へと広がっていきました。

ペーターゼンの取り組みは第二次大戦中を通じて続きましたが、東西ドイツ対立やその後西側に亡命したペーターゼンの早逝などのためにドイツ国内ではその後あまり発展していません。しかし、1950年代にオランダに伝えられ、オランダの新教育運動に関わっていた人達の手で大きく発展、1970年代以後のオランダの教育制度改革に非常に大きな影響を与えています。

オランダにおけるイエナプラン教育は、フレネ教育やその他の国々の異年齢学級の試みなどからの影響もあり、独自の発展を遂げています。

現在、オランダ国内に約220校のイエナプラン小学校(4‐12歳児)があるほか、数校の中等学校もあり、「オランダ・イエナプラン教育協会」を通して関係者の間の交流を深めています。また、ドイツでも、オランダのイエナプラン教育を逆輸入してイエナプラン校を設置する試みが見られるほか、イエナでも、再度ペーターゼンのオリジナルな思想に基づいて、幼稚園から高校までの一貫教育に基づくイエナプラン校再編の試みもあります。

現在、学校数においても、教員間の研修組織の上でも、諸外国の中で最も発達しているオランダ・イエナプラン教育の実践には、以下のような特徴が挙げられます。

1.学級は3学年にわたる異年齢の子どもたちによって構成される。学級は『根幹グループ(ファミリー・グループ)』と呼ばれ、学級担任の教員は「グループ・リーダー」と呼ばれる。

2.学校での活動は、会話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本活動を循環的に行う。この4つの活動を循環的に行うために、時間割は教科別で作られず、4つの活動のリズミックな交替をもとにして作られる。

3.生と仕事の場としての学校。学校を、子どもと教員と保護者とからなる共同体とみなし、子どもが一日のうちの大半の時間を過ごす場として、リビングルームとしての環境づくりを強調する。

4.学校教育の中核としてのワールドオリエンテーション。子どもの経験世界における、真正な現実に対する『問いかけ』に発する学習。教科別の学習との相互交換的な学びを通して、『学ぶことを学ぶ』ために設けられた総合的な学習の時間。

5.インクルーシブな教育を目指し、生徒集団を、可能な限り生の社会の反映としてとらえ構成するように目指す。この理念に基づき、イエナプラン校は、教育行政が取り組み始めるよりも前から、特別のニーズを持つ障害児や社会経済的背景のためにハンディキャップを持つ子ども達の入学を積極的に受け入れてきた。



ドイツにおける発展 [編集]ペーターゼンは、第2次世界大戦前、イエナ大学の実験校で、6歳から15歳までの子どもを対象にした学校教育、幼稚園、特殊教育でイエナプラン教育を実践した。ナチスの支配期には同校は政治的圧力のもとに置かれつつも閉校されることなく存続し、それが、今日まで、ペーターゼンの政治的立場を批判する論評の原因ともなっている。第2次世界大戦後、ペーターゼンは大学実験校の存続と、再編成を試みるが、イエナが共産圏に置かれ、ペーターゼンは共産主義政府当局に対立し、同実験校も1949年に閉校となった。

その後、ペーターゼン自身は西ドイツに亡命し、1953年に亡くなっている。西ドイツでは、1950年代と60年代にいくつかのイエナプラン校が設置されたが、ペーターゼンの死亡や東西ドイツ対立などのために、ドイツ国内ではあまり大きな発展をしなかった。むしろ、下記に述べるように、オランダでの発展が先行し、現在、ドイツにおけるイエナプラン教育は、再興運動として行われているものと、オランダでの実践に倣って設立されているものとがある。ただし、オランダに比べると学校数は少なく、教育界における影響力も比較的小さい。

オランダにおける発展 [編集]現在、イエナプラン教育が最も盛んなのはオランダである。また、オランダにおけるイエナプラン教育は、ペーターゼンが打ち立てた基礎に基づきつつも、さらに、フレネ教育や欧米各地の無学年生の学校や異年齢学級の実践からの影響も大きい。 オランダに初めてイエナプランを紹介したのは、スース・フロイデンタール・ルッター(Suus Freudenthal-Lutter, 1908‐1986)で、彼女は、当時オランダの新教育運動の母体組織であった「養育・教育刷新研究会(de Werkgemeenschap voor Vernieuwing van Opvoeding en Onderwijs、WVOと略)』の国際交流部門の秘書だった。

スース・フロイデンタールがイエナプラン教育に出会ったのは1950年代であると言われているが、イエナプラン教育がオランダの教育者たちに公的に広く知られるようになるのは、1964年に「イエナプランによる教育刷新」というテーマでWVOの全国総会が行われてからである。この総会には、生前、夫ペーターに協力してイエナプラン教育の発展に努めたエルゼ・ペーターゼンも招かれていた。その後、1969年には『イエナプラン教育財団』が設立され、財団関係者の交流のために、季刊誌「ペドモルフォーゼ」が刊行された(1981年に廃刊)。

オランダで最初のイエナプラン校は1962年に設立されている。以後、オランダ憲法第23条の「教育の自由」により認められた『教育理念の自由』『学校設立の自由』『教育方法の自由』などの好条件に支えられて、イエナプラン教育を採用する学校は順調に普及発展を遂げ、現在では、オランダ国内に約220校のイエナプラン小学校(4‐12歳児)があるほか、数校の中等学校もある。現在は『イエナプラン教育財団』に代わり「オランダ・イエナプラン教育協会」が設置されており、毎年、参加校の教員及びイエナプラン教育の専門家を集めて全国総会を開催するほか、「メンセン―キンデレン」という季刊誌を発行して、イエナプラン教育関係者の間の交流を深めている。

(終わり)
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シュタイナー学校(ワルドルフ学校) ( No.6 )
日時: 2013/09/21 21:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nG3PlehE

イエナプラン教育と似たようなものに、シュタイナー学校(ワルドルフ学校)があります。


ルドルフ・シュタイナー

 ルドルフ・シュタイナーは1861年にオーストリアの田舎町に生まれ、1925年に亡くなりました。彼はカントを学び、ゲーテの書籍などをまとめたりし、さまざまな思想家、哲学者とも交流して、真理は神秘的直観、体験によってしか得られないという神秘主義の上に立つ、神智学を打ち立てました。

 シュタイナーは、ゲーテの権威であり、劇作家であり、オイリュトミーという運動芸術の発案者であり、哲学、神学、教育、農学、建築学、薬草学、薬学、医学、自然農法、共同体思想など、ありとあらゆる分野の専門家であり、また全部を繋げた人でもあります。この本で取り上げた幼児教育は、その巨大な氷山の一角といえます。

シュタイナー学校(ワルドルフ学校)

 シュタイナーは、人間は7年ごとの周期で大きく発達していくと言います。生まれてから永久歯の生えてくる7歳までが第一段階で、肉体の完成にあらゆるエネルギーを総動員しているときです。思春期の訪れる14歳までが第二段階で、エーテル体という、肉体に生命を注ぎこんでいる力の活躍する時期です。14歳から、人間としてすべての要素が整う21歳までが第三段階です。第二次性徴が訪れると、思考や想像力、判断力が目覚め、アストラル体が活躍を始めます。そして21歳に自我が目覚め、人間として完成します。シュタイナー学校のカリキュラムは、その人間の発達を待ち受けるかたちでつくられています。

 シュタイナー学校は、別名ワルドルフ学校と呼ばれますが、ドイツのシュツッツガルトで、1919年に初めてワルドルフ・アストリアという名前の煙草工場で働く人たちの子どもたちのためにモデル校をつくったところから始まったのがそのいわれです。

 最初の学校ができてから、現在では国境を越えて46ケ国に900以上もの学校ができるまでに発展しました。その他、とくにヨーロッパでは多くの公立校がシュタイナー学校のメソッドを取り入れています。

幼稚園

 幼稚園は年齢タテ割りで、知育をしません。子どもはまだお母さんのお腹の中にいるような気分で生きているので、部屋も子宮の中を思わせる淡いサーモンピンクのペンキで塗り、透きとおったカーテンで直射日光をさえぎり、夢の中のような雰囲気を保ちます。子どもはこの時期は理屈ではなく、模倣から物事を身につけて成長しますから、静かで、優しく、生き生きしたよい人間関係とリズムのある生活とよい環境を与えます。この年齢の子どもの生活半径は家庭にあるので、幼稚園も家庭的な雰囲気をつくって教師はお母さんやお父さんのような雰囲気で子どもに接します。幼稚園では教師は脇役です。

1年生から8年生まで

• オリジナルのカリキュラム
 アメリカのシュタイナー学校では、小学校は1年生から8年生までで、つぎが高校で9年生から12年生までです。小学校は、教師は持ち上がりで、子どもの魂を育てます。この年齢の子どもたちは主に感覚を育てています。

 カリキュラムは、それぞれの教師が、どんな時代にどこでどんな子どもを相手に、また自分が誰であるかによって、発達段階などの基本線を保ちながら、独自のものをつくり上げます。また全教科にそれぞれ横のつながりをもたせると同時に、全体像がつかめて、子どもが今学んでいることや理由が無意識のうちに理解できるように配慮します。

 たとえば七歳の子は幼児からの転換期にいますから、まだおとぎ話の世界に住んでいます。ですから一年生は全教科が物語形式で導入されます。九歳は自分と他人が区別できるようになる年齢です。すると国語では人間のもっとも古い歴史と呼ばれる旧約聖書がテーマになります。手の仕事では自分と他人がぶつかるイメージのクロスステッチが入ってきますし、音楽では和音、輪唱などが出てきます。また全体と部分の例としては、算数の場合、足し算、引き算、割り算、掛け算の四体系全部が最初に物語形式で提示されてから、それぞれの体系に移っていきます。

• メインレッスン形式の授業

 一日の初めは二時間弱、主要科目を集中して勉強します。とくに低学年は、歌をうたったり、詩を唱えたり、ゲームや劇などの芸術体験を通し、肉体の動き、心、頭を総動員してすべてを学び、最後に自分たちでその日に身につけたものを大きなノートに挿絵とともにまとめていき、それが教科書になります。

 教科は国語なら二〜三週間毎日ずっと国語ばかり学びます。つぎに国語は休んで、学んだことが消化するのを待ち、その間に算数に進むという具合です。主要教科のあとは手の仕事、二つの外国語、体育、オイリュトミーという運動芸術などが続きます。

 小学校に入ると子どもの中に記憶力が目覚め、言語を通して物事の意味が理解できるようになっていきますが、まだいろいろな判断力のもとをつくっている段階です。将来きれいなものと汚いものが区別できるように、美しい環境を用意し、人間の生き方を含め、子どもの人生のお手本になるような資料のみ使います。すべての教科を、人間がそれを初めて発見したときからの歴史を経験させることにより、自分の力で現在の発達までを全身で理解できるようにします。点数評価はありません。

 子どもと大人の境目である思春期は、人間の歴史でいえばルネッサンス、革命の時期です。その時期には、それに対応したカリキュラムをもってきます。変動期の歴史を自分がその時代の主人公になったようなかたちで学び、国語は喜劇と悲劇を交互に用意し、子どもの転換期を発散させます。この時期は、幼稚園で家庭が子どもの行動半径だったのが、学校という共同体にまで広がります。八年生まで、教師は生徒の前でしっかりした権威をもちます。

9年生から12年生まで

• 思考、想像力、判断力が目覚める高校時代

 高校になると、子どもにはついに本当の意味での思考力、想像力、判断力が芽生えますから、それからはすべての授業が思考を通して行われます。子どもの行動半径は地域社会にまで伸びます。人類の歴史を人の成長の中に見ると、幼児はまだおとぎ話や神話の時代に生きていますが、小学校で人類の太古の歴史からルネッサンスや革命時代まで行きつき、高校で現代社会までたどりつきます。子どもたちが見るもの、聞くもの、経験するものが血や肉で理解できるよう、さまざまな角度から物事を学びます。

 自分の育った環境と違う世界を経験するよう、障害者学校や施設や貧しい地域の託児所、その他工場などへ学校の教科の一つとして働きにいきます。社会科の授業では、息子は裁判所へ実際殺人事件の裁判をしているところを見に行きました。授業はほとんど考える授業で、討論の結果や研究成果をクラスで口頭で発表してから、挿絵付きのレポートにまとめるというスタイルが多くなります。

 10年生くらいになると、よその国のシュタイナー学校との交換留学が盛んに行われます。私の長男はドイツ、次男はフランスの学校に行きました。アフリカやオーストラリアなどに行く子もいます。そして11年生ごろから大学への進学準備に入ります。この時期の子どもは地域社会に住み、21歳までに現在の世の中に出て行く準備が整います。思春期から子どもの自立心が目覚めてきますから、親や教師はふたたび脇役に回ります。



シュタイナー教育の目的

 学校教育で一番大切な部分は、子どもたちに人間とは何者か、なぜ自分は生きているのか、いったい自分はどこから来て、どこへ行くのか無意識のうちに感じさせることにあります。いわゆる教科は、生きるための手段であり、目的は別のところにあるのです。けれども人智学を教えてはいけないことになっています。

 シュタイナー教育は、全人教育であり、自由への教育ともいわれます。それは自分が好き勝手なことをするのではなく、いつも全体と部分、周りの世界に対する自分の立場を感じ取り、自分で温かい心をもって、正しい思考ができ、判断し、それを実行できるだけのあらゆる意味での基礎をつくることにあります。ですから教師が子どもたちにものを教えているときも、現在の子どもに語りかける部分、それからこれから成長させていく種をまいている部分の両方に気を配ります。教師が子どもに教えられるのは高校の卒業までで、その後はその基礎を経験とともに延ばしていってもらいたいからです。いつも目の前の子どもたちの二〇年後、三〇年後、そして年を取って死ぬまでのことを考慮に入れて基礎をつくっていきます。

 感情、知性、行動力のバランスがとれた自由人を育てることがシュタイナー教育の目的です。



最後に、紹介した教育の方法に共通することは、子供に自主性を理解させるというものです。
但し、これは3段階に分けられていて、幼児期の自主性の開発の為には、それこそ子供の潜在した可能性を導き出す為に、何事も子供に任せるということをするらしいです。
我が国と異なるところは、小学生、中学生の年代になると教師の指導を中心とする様に切り替わってきて、教師はあらゆる社会的な規範を子供にしつけると言います。
その後、子供が自立する時代、要するに高校生の時期から、再び、子供の自主性を尊重し、それぞれが、それぞれにあった生き方を選択するように指導すると言う方法を取っている事です。
そのために、特に小中学校の時代の教師の能力を育てるような事がされていて、新任の教師には、人により様々ですが、1〜3年くらいは先輩の教師が、その教師の指導に当っているという事です。
この点も、学校出たての新任教師が赴任すると、たちまち一人前に扱われ、誰の干渉もなく教育に当っている我が国の環境とでは教師の質に大きな違いがあります。
「自主性教育」と言う言葉だけを追っている我が国の間違いを認識するべきですが、文部科学省、教育委員会、日教組全てが、本当の子供の教育とは、何かを問う姿勢はなく、単に自分たちの立場から教育方針を弄んでいる現状では、誰もが気がつきません。
ましてやペアレントモンスターなどと言うPTAが存在していては、我が国の教育に何の期待も出来ないでしょう。



(終わり)
メンテ
Re: 教育の話し ( No.7 )
日時: 2011/09/18 13:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3R2ku166

さて、元へ戻って、関口博之氏の教育論です。
関口氏は、氏のグログへ行けば御分かりになるように、

http://d.hatena.ne.jp/msehi/
ドイツを参考に、教育、産業、原発行政などの分野で新しい日本の形を求めておられるようです。
そういう意味で敬意を払うとともに、表題の教育論(これだけではありません)について、私からも一言参加させていただきたく思います。

氏の記事の趣旨は、安倍改革によって行なわれた、新自由主義の枠に組み込まむ教育改革の総括とも言うべき教育基本法案に対する批難です。

考えてみれば、もともと教育とは、何であったかということも考えなければならなくなります。
教育と言う概念の発祥は、王権国家の時代の帝王学に端を発していると思います。

ギリシャ時代から君主論などが書かれていました。
その後の教育は、一方で宗教の世界の修業とは別として、国家の官吏を養成する事が主眼となり、中国の科挙の制度などが良い例です。
近代になって、庶民が少しは裕福になると、庶民の生活の為の読み書きソロバンというものを教育するようになりました。
始めての大衆教育であります。

その後、産業革命を経て、国家の覇権争いは、武力だけでなく経済全般の問題となり、国家の富国強兵の為に国民を教育することが必要となりました。
国民皆教育の為に義務教育制度が出来たのは、この頃からです。

帝国主義による国家間の覇権争いが収まると共に、民主主義の社会と言うものが標榜されて、始めて人権や個人の権利の概念が教育の中に盛り込まれてきました。
しかしながら、富国強兵に代わって企業戦争に勝ち抜くための人材確保と言う面が、よりダイナミックに蠢いています。

現代社会は、まさしくこの延長にあり「教育に何を求めるか」と言う概念も醸成されてはいません。
もちろん、教育の過去は過去、これからの教育のあるべき姿を追い求める必要が嫌が上にも増してきていると思います。
新自由主義の枠組みの中の教育は、あいも変わらず富国強兵の延長にあり、格差に悩む庶民の生き様の指標にはなりません。
物資と情報の氾濫による人間性の崩壊にも対応できません。

要するに文明史的な価値観の転換が求められているのです。
それが何であるかの方向性は漠然とは皆が感じ取ってはいると思います。

そういうものを凝縮して新しい教育の理念をつくらねばならないと思います。
同時に、それを、倫理、道徳と言った範疇の精神の領域へ求めてはならないことを認識しておくべきです。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.8 )
日時: 2013/09/21 21:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nG3PlehE

久々に、教育問題のスレッドをUPします。

我が国ではペーパーテストで良い成績を取れることが教育と考えられる一方で、誤った平等、自主性の教育が行われています。


「平等と自主性教育の問題点」については下記のURを御参照願います。

http://www.kyudan.com/toukou/amano03.htm

また、下記もどうぞ

「私立高等学校における校則と退学処分に関する考察」

http://www.kyudan.com/toukou/amano02.htm
メンテ
Re: 教育の話し ( No.9 )
日時: 2012/07/09 12:50:23
名前: 北の国から

 この掲示板で私も、選挙の結果は(制度の善し悪しはとりあえず置いといて)そこの住民の
民度、つまり根本的には教育の中身で決まると何回か書かせていただきました。
 たとえば、この天橋立の愚痴人間さんのスレッドのNO.4などでは、教育についてさまざ
まな論点でかなり全面的に論じておられ、勉強させていただいています。
 教育の目標である「自立の精神」「他人の痛みのわかる人間」「困難な人々に配慮できる」
など、きわめて重要ですが、国民的な合意にいたっていません。
 ここでは、政治が当面よくならないだろうというなかで、それでも私たちが身近なところ
からできそうな、教育の改革について考えてみました。(小、中、高くらい)
 まず、教育の現場と地域の共同です。PTAのような学校主導になりやすい活動ではなく、
生徒の親でなくても参加し(場合によっては生徒も参加し)おおいに生徒の活動や、教師の
課外活動を支援し、同時に学校もふくめた地域づくりをすすめていく。モンスターペアレン
ツなども減少します。受験成績だけの教育や、民主主義のはき違えも、みんんなで議論して
乗り越えていく展望が生まれます。教師の悩みや、生徒のこまりごとなども共有できると同
時に、教師が地域にしっかりと根付いた教育ができます。
 教育委員会や校長が馬鹿なことを言ってきたら地域の力で粉砕できます。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.10 )
日時: 2012/07/09 13:14:20
名前: 北の国から

 ボクの小学6年のとき(S35)など、一クラス74人でした。それでも先生は、卒業間近に
なった三日間、他の授業をやめて、「二十四の瞳」を朗読して聞かせてくださいました。
 一クラスの人数は少ないほうが生徒にとっても、教師にとってもいいに決まっていますが、そ
れよりなにより「教育の目標」とか「教育の本質」を真剣に考える教師こそが求められていると
思います。
 教師を、どこかの機関が評価したり、進学の状況で学校を評価する愚かさについて、住民と地
域づくりという観点から強力に批判していく、地域の合意をつくりあげます。
 知識ももちろん軽視できませんが、教育現場で、「生徒全員参加の音楽」とか「全員参加の劇」
など、地域と社会全体をみる楽しさ、参加するたのしさ、苦手な科目があろうと「学校って楽し
い場所なんだ」と感じることを生徒にひろげる、そのために優れた文化に接する具体的な機会を
作っていく、これが、二つ目の提案です。
 そして、これも現場への介入ですから、地域から強力に発信するしかありません。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.11 )
日時: 2012/07/09 13:33:37
名前: 北の国から

 天橋立の愚痴人間さんが指摘されているように、教師の質は決定的です。
しかし、これは5年10年でどうにか(制度を変える展望もない)なるようなことでは
ないような気がします。
 たとえば、掛け算を習う前に、時計の読み方を教える非科学性。こういうことに専門
の、プロの教師は、断固として批判しているのでしょうか。
 ボクの6年のとき、勉強はあまり好きでなかった女の子が、歌についてはなんでもか
んでも、歌詞もメロヂイも正確に覚えている。先生はその生徒の出番を、ことあるごと
につくってあげていました。

 医者という職業もそうですが、教師という職業も「教師という職業が好き」「子ども
が好き」で教員の道を選択する生徒は減っているらしいのです。
生徒にとっては悲惨なことです。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.12 )
日時: 2012/07/09 13:46:15
名前: 北の国から

 誤解を恐れずにあえて言うと、たとえば熊本県民の方たちよりも、京都に住んで
おられる方のほうが、一般には民度が高いと言われていますし、そうしたことを裏
付ける客観的事実は少なくありません。
 それは、京都府の教育の実践が優れているということではなく、たぶん長い歴史
の実践によって培われてきた「地域力」ではないかと思っています。
 (たまには、少しおかしい「政調会長」なども当選してきますが)
メンテ
Re: 教育の話し ( No.13 )
日時: 2012/07/09 13:58:00
名前: 北の国から

 この辺りのことはあまり勉強していないので断定的なことは言えないのですが、
徳川300年のなかで、京都のひとびとは「都」の誇りと「反中央」の伝統をう
けついでこられたのではないでしょうか。
 「開発予算どりのもらい上手」の北海道と言われていますが、私の経験でいえ
ば、北海道では、サラリーマンよりも、農漁民のほうが地域的誇りと気骨を持っ
ていると思います。
 教育の地域共同は、富良野の高校で実践がつづけられており、少しづつではあ
りますが、実績もあげています。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.14 )
日時: 2013/09/21 21:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nG3PlehE

このスレッドも大切にしていますが、随分と放置していましたので、過去ログに入りかねません。

それで久しぶりにUPし、皆さんの目に触れるようにしました。

政治のことは、この通りなので、意見を言う気にもなれない方は、せめて教育論にでも花を咲かせて下さい。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.15 )
日時: 2016/01/29 15:35
名前: 長屋修 ID:/n2sF1d2 メールを送信する
参照: http://st-nagaya.jp/

元数学教師の長屋修です。今、取り組んでいることが教育に関すること
なのでこのスレッド「教育の話し」の場を借りて話しをさせて下さい。

当たり前のこと(但し、教科書・辞書・百科事典に載っていない)を教
えたところ、校長室に連日呼び出され岐阜県教育委員会から弾圧されま
した。
http://st-nagaya.jp/j2.pdf
このこと自体は、権力の不法行使という普通の事件で、ニュースにもな
りません。
しかし、教育内容が世界共通のことであるため、被害者は世界中の子供
達であり、私の被害など微々たる問題です。そこで、HPに欠陥教育の証
明を載せたうえで、国連にメールを送るなどしました。
http://st-nagaya.jp/doom1.pdf
数年間にわたり、マスコミや大学や人権団体などへメールを送り、HPに
掲載した証明の反証を求めましたが、反証がないまま、従って、洗脳教
育という事実証拠が山積することになったのです。
そして法務省がその事実証拠を「法務省の判断の策」によって抹殺しま
した。
そこで、私は法務省の許可を得たうえで、法務局・法務省とのやり取り
もHPに公開しました。
http://st-nagaya.jp/doom6.pdf

そして、次のメールを配信して、世界中の子供達の窮状を訴えています。

件名: 使命・責任・人道
関係各位
「速さを比較するには運動の指標(ゴールもしくはスタート地点等)を
一つに限定しておかなければならない」および「光をジグザグに折り曲
げるには鏡など反射物が必要」という経験事実や認識はガリレイの相対
性原理やアインシュタインの相対論を完全に破壊するものです。ところが、
日本の法務省は教育の場からこれら事実を抹殺したのです。この事実は
「世界中の子供達に対する日本国の人権侵害」に他なりません。詳細に
つきましては、
http://st-nagaya.jp/
の特に項8〜項9を御覧ください。なお、大学当局は「知る権利(学生
にとって最重要事項)」を尊重し、このメールを学生達へ十分に開示し
て下さい。宜しく御願い致します。
貴方方は、かかる日本の国の蛮行を容認しますか…。現状は科学文明の
破壊どころか、「考え方と言動」という意味において、人類は宇宙の許
されざる存在となっているのです。
※天網恢恢疎にして漏らさず(悪逆・悪道)。
メンテ
Re: 教育の話し 長屋修様へ ( No.16 )
日時: 2016/01/30 03:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:j/CNFuOs

長屋修様、初めまして、私はHNを天橋立の愚痴人間としているものです。
京都北部の田舎町で建築の設計をしています。

糾弾掲示板に投稿を始めて10年近くなる古参のものです。
政治的には民主党の体たらくから、やりきれない思いで最近は顔を出す機会が減っていました。
その間に、迷惑投稿が多くなり、嫌になっていましたが管理人さんが対策を講じてくださったようで、ようやく落ち着きました。

教育の話スレッドなどには、多くの方が興味をもたれていなかったのですが、あなたの投稿を見て、嬉しく思いレスさせていただきます。
あなたな言われている数学の教育方針について、紹介のサイトへ行ってみましたが、今一つ、難しくて良くは理解できません。
ですが、あなたは、数学と言う以上に物理的原理に新しい物を取り入れておられる様です。

物理的認識論と言うものは、ニュートンが初めに近代的に体系つけたものを、天才アインシュタインが、また別の世界を想定し現在は、その延長にあると言うよりも、既に、それも乗り越えようとされているようです。

あなたが言われている速度の認識も、その類の領域の話と思います。
速度の事を言われているようですが、おそらく、それは速度の話しだけではなく、宇宙の論理一般にも通じるものではないでしょうか。

あなたが言われている我が国の教育方針との対決の問題はさておき、一般的な教育とは、もともと、そのような高度な内容は想定していないと思います。
日本の教育は進んでいると言われていますが、元々は明治になって富国強兵の手段として義務教育制度として取り入れられたとされています。
それが正しいとは言いませんが、少なくとも従来の教育制度は国の発展の為に発達してきました。

このことも、私は容認したい訳ではありません。
もはや世界は国と国とが覇権を争っている場合ではありません。
人類が生き残る為に、全英知を縛る必要があります。

そのような意味での教育の新しい理念が明確になって行くべきではありませんか。
あなたの言われていることは、この領域の話と思います。
ですが、一方で大衆と言われるものの性格も熟知しなければ成りません。

教育関係者とのトラブルの問題よりも、あなたの考え方が、もっと知りたく思います。
教育関係者と言うよりも、政治を含む行政の姿勢には、あなたの問題に限らず、色々な分野で憤懣やり方ないものを感じています。

奴らは、既成の法律を盾に国民を抑えこもうと必死です。
法律と言うものを作った時の精神など、すっかり忘れ、己の権力を誇示する為に法律、法律というのです。

こんな連中を相手に、例え霞ヶ関、永田町にたどり着いても、奴らこそ諸悪の大元に過ぎません。
政治でも同じことです。

初めに言いました様に、政治に物申したい糾弾掲示板ですが、最近は政治のことより、経済の話とか、宗教の話、教育の話、文化文明の話などに打ち込んで、我々の基本的なところから問題提起したいと思っています。

あなたの来訪を嬉しく思います。
どうか、また、ご意見をお寄せください。

このスレッドへのアクセス数は、2000余りですが、本当は2万近くあります。
サーバのトラブルで、全体に1/10くらいとなっています。
メンテ
Re: 教育の話し ( No.17 )
日時: 2016/01/30 11:25
名前: 贅六 @ 関西弁 ID:FGPmo8r.

長屋 修はん、大阪からアホが横槍入れますが堪忍でっせ!

長屋 修 はんが、県の教育委員会や上司である校長その他所謂“行政”と揉め事起してはる様ですけど、その争点と成る「速度」に付いての 長屋 はんの教えた内容の提示がおませんので、ワテら門外漢には何を争うてはるのかさっぱり解りまへん。

高校教育で生徒の教えてはる講義内容ですよって、如何言う講義をしはったのか概略で宜しおますので、この掲示板に提示して貰たらもっとワテ等の理解が進むんや無いかと思いますけど、どんなもんでおます?

失礼でっけど、「気に入らん!」「気に入らん!」言うてはる『事』の中身が分からんのに、遣り取りしてるプロセスばっかり書かれても、あんさんの持論に賛同も反対も出来しまへん。

勉強の為に、あんさんが論争してはる「論点」の中身を教えて貰えまへんやろかねぇ。
メンテ
いじめの問題 ( No.18 )
日時: 2017/01/23 13:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cRebnFX2

「いじめから逃れるためにお金を払わされていただけで、いじめではない」

東京電力福島第1原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒がいじめを受けた問題で、横浜市教育委員会の岡田優子教育長は20日、「(同級生からの)金銭要求をいじめと認定するのは困難」と述べた。
生徒側は、いじめと認定するよう求めているが、岡田教育長「第三者委員会の答申を覆すのは難しい」
男子生徒はいじめを受けていた小学5年の時、同級生から「賠償金をもらっているだろう」と言われ、自宅から現金を持ち出して1回5万〜10万円を渡していた。
市の第三者委が昨年11月にまとめた報告書は、「金銭授受はいじめから逃れるためだった」と指摘した上で、「おごりおごられる関係で、いじめとは認定できない」と判断した。生徒側は今月10日、いじめと認定するよう求める要望書を提出していた。

https://1kando.com/44289

引用終わり

サイトを開けて見られると、岡田とかいう教育長の面が見られます。
どうして、このような判断ができるか信じられないが、そう言う判断をする奴らがいると言うことです。

学校で発生するほとんどが、こういった教師の判断ミスで対処され、自殺へ発展することもあります。
教育とは何か、という理念も解らず、教師面をしている小中学校の教師のレベルの低さには目も当てられません。

生徒間の直接のいじめの問題ではなく、こうした判断を下す、教育者も犯罪の共犯として、また教育者の責務を遂行しなかった責務についても罪を問うために、いじめられた生徒の親は、彼らを告訴するべきであります。
これにより警察が介入し、真実も明らかになるでしょう。

小中学生の年代で、正義に関する、このような不合理えお見せつければ、いじめた方も、いじめられた方もまともな成長などできません。

いじめの問題よりも、こうした連中が教育に携わっていることが問題です。

小中学校の教育の問題は、このスレッドの初めの方に書いています。
それには入れなかったかと思いますが、教師の有り様について、

ある国では、新任教師に対して3年間ほどは先輩教師がついて指導する制度を取っているようです。
日本の場合は、大学を出るとすぐに教壇に立ち、自分の思いだけで生徒を教育します。

人生経験、社会生活の経験もない若者が正規の教育担当者として、たとえ小学生にでも対応する能力があると思いますか。
特に現代では、その教師自体が、甘やかされ、ろくな成長もしてないことを考えれば、何をかいわんやです。

最初の2、3年くらいは先輩教師の指導の下に教育に当たるべきではありませんか。
また、教師の世界と言うのは、互いの人格を尊重しあい、先輩後輩と言っても干渉することは避けます。
教頭、校長と言っても一般教師のやり方に口をはさむのを良しとしない傾向があります。

そんな中で教師自体の社会人としても成長は微々たるもので、とても教師の義務教育と言う時期、こともを指導する資格はありません。
子どもと同じように公平、平等を言い遊んでいるのです。

それに対して一般の社会人が会社に入ると、会社の方針、上役の方針に従わねばペナルティーを課せられます。
商売相手の人からも、自分がミスすれば攻撃されます。
こうして若いものは次第に社会の考え方を身に着け自己発展をしていくのです。

教師に、そんな経験はないでしょう。
何の能力、術も持たない教師が、悪がき、PTAを相手に自力で戦って根を上げている状況があります。
すべては、いきなり、その問題に対応し、自分だけの考えでやろうとしているからです。

結果、冒頭の教育長のような馬鹿な発想が生まれるのです。

メンテ
学校における「平等」と「自主性」教育の問題点 ( No.19 )
日時: 2017/05/07 12:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KK6YNwlI

「お話 その1」

 京都府のある小学校の四年のクラスには、教育に非常に熱心な先生がおられまして、その先生は、テストのとき、生徒の全部に90点以上を取らせたいと思い、試験が近づくと、黒板に問題と解答を書き出し、何回も何回も生徒に覚えさせていました。 結果は聞いておりませんが、その父兄の一人は、先生の努力を奇異なものと感じておられました。

「お話 その2」

 私の子供が小学生のおり、「学級通信」なるプリントを殆ど毎日の様に持って帰ってきました。 始めは、先生も大変と思いながら、少しは目も通しておりましたが、そのうち、捨てる訳にもならす、ただ集積するに任したものです。 日常化した膨大な量のプリントは子供にとって本来の連絡紙の意味を感じなくなり、本当に必要な内容を含んだものも含めて親に確実に手渡す事の大切さがだんだんとわからなくなってしまいました。

 知り合いの小学校教諭に聞きますと、そのプリントの作成に毎日時間を取られて、また、毎日なので書く内容に神経を使うため大変らしいです。 費用対効果の意味で先生方に同情するだけではすまされない問題が内在していると思います。

「お話 その3」

 最近小学校での運動会では、1等・2等・3等と順位をつけない学校があるらしい。 幸いに、私の子供の学校では経験しなかったが、早く走れるのにふざけて走らない子供、玉入れでは相手の籠に玉を入れる子供、またそれを観戦する父兄のしらけた表情など、想像するに耐え難い光景を現実のものとしている小学校が少なからずあるようです。

「お話 その4」

 私がPTAの地区の役員をしていた中学校で、毎年夏休みに行われている、生徒による古紙回収の行事での話し。
準備の為の役員会が開かれ、教務担当の先生からは以下のように説明されました。 「この行事は生徒の社会学習の一つとして、生徒が自主的に計画して行うものです、父兄の方には、回収の為の車両を提供していただき、また行事が安全に行われるように指導してやって下さい」
行事当日の事 ・・・

行事後のPTAの役員会(反省会)の発言集

ある父兄 
今年は生徒達が非常に協力的でスムースにできて、本当に助かりました。
(私のところでもそうだった、との同調意見あり)

教務担当の先生  
有難うございました、また来年も宜しく・・・

私の発言
皆さん、少し待って下さい。 私の地区では以下のようでした。
集合時間を厳守できていない、特に上級生に目立つ。
集合して後、上級生からは、父兄に何の挨拶もなく、また、下級生にたいして何の指示もしない。
様子を見ていると、班分けは出来ているらしく、ぞろぞろと出発する気配なので、回収道順等について車両を運転する父兄に説明をする様に注意をしたところ、明確に説明する何の資料も持っていない。
回収前に、協力を依頼する文書を各家庭に配布していたようだが、そのリストも持っていない。 回収作業が始まってからは、トラックの荷台に乗せろと上級生ほど要求する。

 以上の内容であり、先日、先生から言われていた、生徒が自主的に行う社会学習の観点から見ると、その目的からは、かけ離れた状態であった。 それでも結果として、市からの助成金を含めて50数万円の収入が見込め、それで教材及びクラブ活動の資金が手に入り、生徒が自分達の力でこれを達成したと思うことは、教育上ゆゆしき問題であり、来年からは取り止めていただきたい。 資金が必要ならPTA行事として行い、生徒に協力させればよい。 (皆さん、しらけてシーン ・・・ )

「お話 その5」

今度は私が地区の公民館で文化委員をしているときのお話です。
小学校の夏休みを目前に、公民館の関係委員・小学校の担当の先生・市の教育委員会からも課長が出席して、地区の子供たちの夏休みの過ごし方を指導する為の会合でした。

学校の先生からは、海水浴の時の安全確保、交通事故に巻き込まれない様に注意させるとか、規則正しい生活に留意させるとかの一般的注意を学校の夏休み中の行事とも関連させて発言しておられました。

次に教育委員会の課長は次のように発言されました。 「学校では子供が自主性を発揮するように常に指導を行っております、夏休み中も、先生が言われたことを子供が自主的に出来る様に、指導してやってください」
何気ない発言に議事は順調に進むはずでしたが、その場にふさわしくない者が今年は紛れ込んでおりました。



私の発言 
最近、教育の場でよく自主性が言われていて、修学旅行の行先も子供の意見を聞かれているそうです。 何事でも自主的に出来ると言うことは、その事に関しては、すでに人間として完成できている事ではないでしょうか。 我々社会人におきましても、簡単なことから難しい事までそれぞれに任しきるには、慎重な考慮を必要とされます。

その人が結果の責任を取れる範囲において、本人にまかす(自主性にまかす)様にしないと、事業などは維持出来ません。 もちろん自主性は大切な内容ですが、それを身に付けさせるのは、成人も含めて大変なことです。 また自主性を発揮する為の自身の判断力を醸成させる為に、人は、広く他の意見を取り入れる習慣を身に付けないと出来るものではありません。

生まれながらにして社会的に有効な自主的な判断力を持った子供などいるはずがありません。 正しい自主性などは、その内容に応じて(簡単な事例から複雑な内容のものまで)教導されねば育つはずはないし、年少のころより、そういった、指導をきっちりされる方が、子供はより早く、正しい自主性を身につけることになるのではないでしょうか。

子供達に正しい判断力が育っておれば自然に自主的にものを行うことが出来、結果として我々父兄が喜ぶことであります。 真に子供の成長を願うならば、自分のことでも責任の取れもしない子供の判断の自由にまかせて、成り行きを見ているような悠長なことは、日々成長を繰り返すべきこの時期に適切では無いはずです。

子供の判断の誤りはその都度きっちりと指摘してやる事の連続が教育であり、その必要がなくなった部分に比例して自主性が芽生えたと思うべきです。 しかるに、最初に自主性ありきの今の発言が子供の成長にどの様な意味で有効かを、具体的な根拠を示して説明していただきたいものです。 (またまた一同 シーン ・・・  )

これらは私の子育ての過程での出来事を中心に述べてきました。 その中によく出て来た、表題の「平等」と「自主性」について考えることにします。

広辞苑を引きますと「平等」とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」その用例としては「・・・に扱う」とか「男女・・」のように、あるものとあるものの関係において平等の概念を当てはめることが正しい使い方であり、また「平等に分ける」の場合のように、平等の概念が適用できる対象について可能な言葉であります。

しかるに、我々人間の能力・環境など、それ自体が平等になりえないものに、平等の概念を適用しようとする行為は、愚劣を通り越していて、このような概念を教師が持っているとすれば、直ちに矯正すべき内容であります。 我々人間は、与えられた環境・身体・能力に応じて精一杯生きてゆく事が大切なのです。

年少者の教育の場での神様になるような教育は、子供達が長じて社会生活に入って行く上に、大変な弊害をきたす以外のなにものでもありません。 頭の良い子はそれを生かし・身体の頑丈な子はそれを利用するもよし、成長と共に、自分に応じた生き方を身に付けさせること、自分の長所を認識させることが義務教育時点での重大な課題ではないでしょうか。

民主主義の世の中で、機会とか情報とか、社会的各種差別に対して平等を主張するのは結構ですが、人間自身が平等に生きられると思い込ませかねない教育は、この世ではやって欲しくないものです。

同様に「自主性」について、広辞苑では「他人の干渉を受けないで、自分で決定して事を行うさま」とあります。 子供でも、成人でも、自らを成長させるにおいて、一番大切な心がまえは、見習うことです。 その昔、我々老人の時代には、親は生活に追われていて、我が子の教育などは、ただ叱り付けることでした。 その中で子供達は、やってならない事、善い事を自然に習ってきました。 成人に達してからも、先輩達の仕事を盗むようにして覚えていったものでした。 年少のころから、少しずつ確実なものを身に付けて、それが自信になり、判断力の根拠となって、他の人からも信頼されるようになりました。

自主性などは、その過程で無意識のうちに醸成されてゆく、責任感を伴った自我に基づくものでなければなりません。 自我とは、これも広辞苑によりますと哲学的には「認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語」、また心理学的には「意識や行動の主体を示す概念」、精神分析の世界では「イド」(注)から発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする」とあります。 自我の発育は心理学で言っておりますように、思春期に反抗期を伴って顕著になってくるものであり、個人の心的体験等によりそれぞれに差異があるものです。

発育途上の子供に対して、択一的に、他動的に、まず先に、自主性の概念を教え込む等の手法によって、正常な自我を醸成させることが出来ると思っているのでしょうか。 自主性と言う言葉を自我と置き換えて考えればそんなに単純に、教えて身につけさせられることではないはずです。 自我の未成熟のまま自主性の概念のみが発達した、能力も責任感もない多くの人間が社会に出た時、社会の秩序が崩壊するのは目に見えております。

教育の場で「自主性」を云々するのは、如何にして正当な自主性を身に付けさせることが出来るかを、教育者自身が己に問う問題であり、子供に自主性を安売りするものではありません。 まして、事例を与えて子供に実験させて悦に入っているのみの教育現場のあり方は、もってのほかの状況と考えます。 「自主性」にたいする考え方が逆立ちしている様です。

最近発表された教育基本法のなかにも「自主性を育てる教育」が方針として盛り込まれておりますが、その抽象的概念をかかげるだけで、教育現場の現状に対して余りにも無責任な対応といえます。 子供の内面を伴わない自主性の意識を発揚させる教育が、それだけが全てと申しませんが、やたらと親や教師に反抗し、物事に責任を取れない子供が氾濫している原因となっていると思います。

以上、申し上げました様に、多くの教育関係者様におかれましては、広辞苑等をひも解かれまして、まず自らの語学力の再教育をされた方が、よいのではないでしょうか。 従来の認識を変えられたほうが、自らの教員生活にゆとりも出来、崇高なる職業意識の満足にも効果のある事と、御提案申しあげます。

(注) id = 精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。 エス(es)ともいう。 精神分析の用語。
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自主性教育を受けた若者と社会の接点。 ( No.20 )
日時: 2017/05/07 14:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KK6YNwlI

自主性教育を受けた若者と社会の接点。

その 1(私の職場での経験)
若手社員に指示を出した。これこれの図面を何時までに仕上げるように。
時期が来てその社員に結果を求めた。
彼曰く、時間が足りなかったので出来ませんでした。
(問題点)
時間がなければ残業してもやりぬく意思がなかったのか。
責任が果たせそうもないなら、何故事前に報告しなかったのか。
時間が足りないのは、自分が経験不足なので、頑張って成長する努力をしようと考えないのか。

その 2
若手社員に、これこれの事をやりなさいと指示をした。
何時までたっても報告なし、現場へ確認に行くと、「済みましたよ」と平気な顔。
(問題点)
報告と言う社会のルールが解らない。

その 3
若手社員に、これをやりなさいと指示した。
「私には無理です」と平然と答える。
(問題点)
これこれが解らないので、教えてくださいと考える気持ちが毛頭なし。これでは業務に必要な知識、技術の習得がナメクジのごとく進まない。

その 4
若手社員に、これをやってくるように指示をした。
現場に確認に行くと、思わぬ結果になっていた。
どうして、こうなったとの問に、私が考えましたと自信たっぷり。
(問題点)
物事には、あるべき結果が必要である。正当を得ない結果は必要ない。少しでも疑問を持てば、なぜ熟練者に質問をしないのか。

その 5(私の身近な出来事)
大学へ進学したが、どうも自分には合わないようなので、大学を代わりたい。(半年後)

その 6
会社へ就職したが、会社が自分に合わないと思う。会社をやめたい。(半年後)

その 7(私の仕事上で)
子供室の壁紙は子供に決めさせます。

その 8
特に若い奥さんに多い現象であるが、色彩などの個人の趣向に関することはともかく、計画上の大切な分野まで、専門家の意見を無視してまで自分にこだわる人が段々増えてきている。

このように、最近は、全て自分の価値観で処理する傾向が強く、社会の常識や知識、技術の継承を軽んじることを平気で行う。かと言って、実際の物事の解決には、それなりの内容が必要である。

能力に不足する人間が、困難を伴う事例に遭遇したとき、あった言う間に自分を見失い、暴走することが多くなってきている。

全てが、小さいころから、社会の常識、知識、技術がその都度継承できていない集大成なのである。
自主性教育が、その意味を全くはきちがえて行われている結果である。其の事を省みようとしない教育関係者と指導方針の責任は何よりも重大である。

最近、身近においても閉じこもる息子に困っている家庭が多くなってきた。
彼らの多くは、一応は社会に出たが、そこで上司、周囲からいじめられたと思う場合や、自分の思う様な職場でなかったと言う理由で離職し、家に閉じこもっている場合がほとんどである。
社会が自分に合わせて動いてくれるはずもないのに、そのことが理解できず、環境のせいにしてしまうのである。

学生時代は、強要される何もなく、気の向くままに行動出来て、それが自主性であり個性であると確信してきたことが社会に入った途端、踏みにじられる。
これに耐え切れないで離脱する。
また現在は昔に比べ裕福になっているから自宅へ逃げ帰る(閉じこもる)ことが許されている。

閉じこもりは、本来の精神的な病気ではなく、社会生活不適格症なのである。
しかしながら、この社会生活不適格症も、なかなか快癒することはない、立派な精神病とも言える。

文部科学省が熱心に奨励する「自主性教育」とは、このような結果を生んでいるのである。
「平等」とか「自主性」とか、人間が一生かけて考えるべき概念を、なぜ小中学生に、あまりにも容易に押し付ける。
小中学校の教育は、子供が成長し社会生活をしていくためにあるのである。
実際の社会とかけ離れた概念を押し付けて何になる。



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Re: 教育の話し ( No.21 )
日時: 2018/02/12 16:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:i0PbXTvQ

教育の問題となるか、ならないか!

この掲示板でも、私の意見は決めつける事が多く、そうすると多くの人から嫌がられる。

もう少し遠慮してものを言えと言う事になる。

確かに、趣味の世界では同じ趣味として賛同する事はあっても、政治の事になると10人10色。

民主主義を標榜する世の中、10人10色の中で誰かが突出することが受け入れられないのであろう。

結果、すべてが多数決で決めようとする。

企業経営においても、社員の意見を聞く、グループ内では合議を大切にし、会議がつづく。

勿論、社員のやる気とか、社内の融和と言う面では効果はあると思う。

しかしながら企業は企業同士の戦いである。

ある企業に英雄が出て、強引に企業を引っ張ることがあれば、融和、合議を主体とした企業などは競争に勝てない。

新進気鋭の企業の殆どは、そう言う英雄(創立者)に率いられて発達している。

大企業は、大企業自体の組織が武器で、中小零細企業がそれに勝つためには、大企業に劣らない瞬発力、英断力が必要である。

そう言う大企業相手に、合議を大切にし平均的なアイデアで勝てると思うか。

社内の合議を大切にしグループ活動を重んじる零細企業の例はたまにみる。

結果、ほとんどは思うほどの発展はしていなく、結局は創立者、社長の力量によっているようにみられる。

民主主義的手法とは、この様なものであり、政治における選挙等には認められても、何でもかんでも民主主義的手法が効用を発するとは限らない。

しかしながら民主主義にどっぷりとつかった現代人は、なんでもかんでも民主主義的手法に拘る傾向がある。

その結果、突出した意見に対しては、その内容を斟酌する以前に排斥する事になる。

また原理原則を重んじる意見と、現象面を捉える意見の対立も、正当な評価基準に基づいて検討されることもあまりない。

認識力と言うものは、人の意見が10人10色である様に、人によって異なるもの。

その様な中の合議にどれだけの真実があるのか。

他人の意見を聞くことも、合議することも、なるほど大切な事であるが、それが表面的な結論で終わっては意味がない。

トコトン議論し追求してこその合議である。

しかしながら現代人の多くは、そのトコトンを嫌う傾向がある。

何故ならば、自分の守備範囲に拘るのである。

自分の守備範囲にこもる事によって自分が守れるのである。

民主主義で言う自分の権利が守れると言う事である。

斯く言う私は、結構、物知りの様に思われている様であるが、私自身、自分の守備範囲に拘る事は決してしていない。

私が気が付かない事を言われると、素直にそれを取り入れるキャパシティを持っているつもりである。

反対に議論相手が守備を固くされれは、壁に突き当たった様なもの。議論はそれで進まない。

なるほど、現代人は昔の人間に比べて、それなりの守備範囲を明確に意識されているようだ。

しかしながら、それが逆に禍して、議論が進まない。

進まないままに決断がなされる。

合議と言う美名の下に、自分自身を納得させて。

これが現代民主主義の下の現代人。

企業間の競争のように、それでは向上心の強い他の民族、国家に遅れを取る事になる。

現代日本は人間力において中國を含む東南アジア諸国の後塵を排している。

これも、戦後の教育と物質的豊かさのおかげであろう。

少なくとも私の様な者は、ネット社会でも、実生活でも、否、家庭でも異端とみなされてしまっている。




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自主性教育  シュタイナー(ルドルフ)の学校 ( No.22 )
日時: 2019/02/09 12:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KwNFUM3g

シュタイナー教育

シュタイナー教育とは、20世紀はじめのオーストリアの哲学者・神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが提唱した「教育芸術」としての教育思想および実践であるヴァルドルフ教育を、日本で紹介する際に名付けられた呼称のひとつである[1]。シュタイナー教育では、教育という営みは、子供が「自由な自己決定」を行うことができる「人間」となるための「出産補助」であるという意味で、「一つの芸術」であると考えられている。

シュタイナー教育の根底にあり、目的でもあるのが精神(霊性)への教育である。

>魂と身体

シュタイナーの教育思想では、人間の本性、すなわち内面の特質を、身体(肉体、Leib)、心、(魂、Seele)、精神(霊性、Geist)の3つに分けて理解している。

または、人間の魂から身体までを、意識の座である自我、感情と印象の座であるアストラル体、生命の座であるエーテル体、物質から成る肉体の4層に分けて理解するとも言われる。肉体が誕生しても他の3層は未分化の状態であり、7歳のときにエーテル体が自律、14歳のときにアストラル体が自律、21歳のときに自我が自律するとされる。(それ以降も人間の成長は続くが、ここでは教育のみに話をしぼるため割愛する。)従ってその各段階に分けて人間の成長を理解することが重要視される。

魂はさらに意志・感情・思考(表象活動)の3つの領域から理解され、それぞれの発達にふさわしい時期にその能力を伸ばすよう、配慮されている。

人智学では再受肉(転生)が信じられており、シュタイナー教育を理論づける文献『神智学』では中心点ともなっている。再受肉思想は、直接的には神智学から導入された。転生の繰り返しを通して持続される「個人」と、その個人の覆いである「人格」があるとしており、個性には「個人の個性」と「人格の個性」があるという。後述する「気質」の概念は、この二つの個性が前提となっている。再受肉の思想は、教師に対して、目に見える子供の「人格の個性」だけでなく、その内奥にある太古から受け継がれてきた「個人の個性」を一歩引いて見るといった視点をもたらす、教育上の効果があるという。ただし、シュタイナー自身は、人間が肉体から独立した精神として精神界に在る霊的状態を霊視できたとされており、「個人の個性」など証明不可能な持論を超感覚的に現実として認識していたとされているが、シュタイナーと霊的に同レベルに達し同様の体験をしたと報告している弟子はおらず、教師はシュタイナーの言説を参考に「個人の個性」を想像することで認識を補う[26]。そのため教師には、シュタイナーの言説から得た特定の「調和」のイメージがドグマとなり、子供をその固定されたイメージに誘導するといった事態を注意深く避けることが求められており、自らを発達の途上にあると認識し、想像力の固定化を避け、子供自身と向き合うことが期待されている。

>七年期

上記の認識に基づき、この人間の特質を教育対象として年齢によって3期に分け、その発達特徴を理解する。この約7年間隔の発達的特徴に応じた教育課題があり、その課題を達成するためのキーワードが重要な指標になる。発達の生理学や心理学に基づいた説明がなされており、幼児期や思春期膳の誤った取り扱いは、のちに心身の発達や健康上の障害、広範囲な精神医学上的症状の原因を作り出しやすいという認識に立っている。生まれてから成人するまでの21年間のうちに世界から「真・善・美」を全身を通して理解し、その世界と自分との一体感を見いだし、世界の中で自由で自律的に生きることのできる人格の育成を目指す。

1.第1七年期(0〜7歳) -

誕生から7歳頃の交歯期までで、模倣を特徴とする。肉体の感覚器官が十分に発育する期間である。この肉体を動かす事、すなわち意志の成長が課題であり、無意識的な活動、特に毎日の生活のリズムを重視する。この時期の子供は周囲の大人、特に両親からの直接的、間接的な影響を全身に吸い込んで成長する。つまり無意識的にも「(私の周りの)世界は善であふれている」ことを子供が理解するような環境づくりを目指す。

2.第2七年期(7〜14歳) -

性的成熟期である。感情作用が活発化し、想像力が 育つ一方、権威あるものを求める人間の段階であるとされる。四魂の感情活動が分化・洗練される期間であるとされる。感情の成長が課題となる。そのため教科内容から抽象性を排して芸術的な味わいを持たせつついきいきした感情を育み、「世界は美しい」と感じられる教育を目指す。ドイツ文学者の子安美知子は、小学校時代の教師は「愛される権威」「自明の権威」であることが目指されると説明しており、シュタイナー教育を受けた娘の子安文は、教師は非常に怖い存在であり、教師は教師であって友達のようにはならないと述べている。

3.第3七年期(14〜21歳) -

認識活動が中心にあり、自分の判断で自分と環境世界の関係を決定していく時期である。肉体と魂に結合した自我活動が精神に向かっての思考を開始する期間。表象活動の活発化が課題となる。明晰な表象活動により「世界は真実だ」との認識が目覚める方向の教育を目指す。

この7年周期は誕生から死までだけでなく、死後も繰り返される転生の中で続くライフサイクルであるとされている。


上の3期の具体的な手法についていろいろと解説されていますが、共通することは、子供にどのように自主性を理解させるというものです。

これは3段階に分けられていて、

幼児期の自主性の開発の為には、それこそ子供の潜在した可能性を導き出す為に、何事も子供に任せるということをするらしいです。

※ 子供の我がままを受け入れると言うことではないので注意。

我が国と異なるところは、小学生、中学生の年代になると教師の指導を中心とする様に切り替わってきて、教師はあらゆる社会的な規範を子供にしつけると言います。

その後、子供が自立する時代、要するに高校生の時期から、再び、子供の自主性を尊重し、それぞれが、それぞれにあった生き方を選択するように指導すると言う方法を取っている事です。

そのために、特に小中学校の時代の教師の能力を育てるような事がされていて、新任の教師には、人により様々ですが、1〜3年くらいは先輩の教師が、その教師の指導に当っているという事です。
この点も、学校出たての新任教師が赴任すると、たちまち一人前に扱われ、誰の干渉もなく教育に当っている我が国の環境とでは教師の質に大きな違いがあります。

「自主性教育」と言う言葉だけを追っている我が国の間違いを認識するべきですが、文部科学省、教育委員会、日教組全てが、本当の子供の教育とは、何かを問う姿勢はなく、単に自分たちの立場から教育方針を弄んでいる現状では、誰もが気がつきません。
ましてやペアレントモンスターなどと言うPTAが存在していては、我が国の教育に何の期待も出来ないでしょう。

ドイツ、アメリカ、イギリスをはじめ、シュタイナー学校と併設する形で教員の養成に努める施設が存在する。その多くは、初年度にシュタイナーの基本思想とシュタイナー教育の実践を学ぶ基礎コースを含む2年から4年にわたる制度を採用している。

(追申)

自主性などは、その過程で無意識のうちに醸成されてゆく、責任感を伴った自我に基づくものでなければなりません。 自我とは、これも広辞苑によりますと哲学的には「認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語」、また心理学的には「意識や行動の主体を示す概念」、精神分析の世界では「イド」(注)から発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする」とあります。 自我の発育は心理学で言っておりますように、思春期に反抗期を伴って顕著になってくるものであり、個人の心的体験等によりそれぞれに差異があるものです。

発育途上の子供に対して、択一的に、他動的に、まず先に、自主性の概念を教え込む等の手法によって、正常な自我を醸成させることが出来ると思っているのでしょうか。 自主性と言う言葉を自我と置き換えて考えればそんなに単純に、教えて身につけさせられることではないはずです。 自我の未成熟のまま自主性の概念のみが発達した、能力も責任感もない多くの人間が社会に出た時、社会の秩序が崩壊するのは目に見えております。

教育の場で「自主性」を云々するのは、如何にして正当な自主性を身に付けさせることが出来るかを、教育者自身が己に問う問題であり、子供に自主性を安売りするものではありません。 まして、事例を与えて子供に実験させて悦に入っているのみの教育現場のあり方は、もってのほかの状況と考えます。 「自主性」にたいする考え方が逆立ちしている様です。

誤った自主性教育を受けた我が国の若者が、年少にして小さく自己完結し、その人格のまま社会へ出たとき、社会が要求するものに応えられず挫折感を味わい対応できなくなる。

結果、自分が反省すれば良いが、うぬぼれた人格は自分が上手くやって行けないのは社会のせいにし現実逃避を計る。
それが昂じると自信を無くし引きこもりとなる。
何のための自主性教育であったか、教育者こそ反省しなければならない。
メンテ
自主性教育について ( No.23 )
日時: 2020/06/13 23:35
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:x4Ic.eRY

NO 19からの引用ですが、

自主性と言う言葉を殆どの方は、あまり深く考えずに、言葉通りに一面的に好ましいものと解釈しておられる。

自主性」とは、どのようなものか、ここで考えてみたいと思います。
 
広辞苑では「他人の干渉を受けないで、自分で決定して事を行うさま」とあります。 
成人に対する「自主性」と言う言葉を使う場合、人に頼らず自分で解決するべきであるという様な場合に使います。

ところで、子供に対して「自主性」を持てと言う場合、無条件で、どのような場合にも使うべき言葉でしょうか。
子供が成長する過程で、子供はどの様に生きているのでしょう。

乳幼児に自主性をもって行動せよということは考えられないでしょう。
言葉もそうですが、赤ん坊の時以来、人間は親や周囲の人たちから、すべてを学んで成長していきます。
では、幼児になれば、幼稚園に行くようになれば、親や周囲の人たちから何も学ぶ必要はなくなるのでしょうか。
それは小学生、中学生になってからも同じです。
子供が大人の世界から学ぶべきことは多いのです。

だが、最近は幼稚園の頃から、親は子供に自主性を植え付けようとします。
一体、何の自主性でしょう。
もし、その年代で自主性に重きを置くことがあれば、食事とか睡眠の習慣くらいのものではないですか。

それ以上の事柄で、自主性、自主性と言って子供に好きな様にさせれば、結局は我が儘な子供に育てるだけではありませんか。

その昔、我々老人の時代には、親は生活に追われていて、我が子の教育などは、ただ叱り付けることでした。 その中で子供達は、やってならない事、自分でやっても良いことを自然に習ってきました。

子供が成長するに従い、子供は自分の判断でやっても良い領分を多く持つようになり、自分がやりたいことも意識する様になります。
中学生にでもなれば、大人になって何になりたいなどと、将来像を描くようになります。
それ等は全く自主性に基づく思慮に他なりません。

子供の自主性などは、成長の過程で無意識のうちに醸成されてゆく、責任感を伴った自我に基づくものでなければなりません。

自我とは、これも広辞苑によりますと哲学的には「認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語」、また心理学的には「意識や行動の主体を示す概念」、精神分析の世界では「イド」(注)から発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする」とあります。 自我の発育は心理学で言っておりますように、思春期に反抗期を伴って顕著になってくるものであり、個人の心的体験等によりそれぞれに差異があるものです。

>(注) id = 精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。 エス(es)ともいう。 精神分析の用語。
 
発育途上の子供に対して「自主性」と言う成果だけを求めて、子供に行動を強要することで、本当の自主性が得られるでしょうか。
また、教育の場などで、択一的に、他動的に、まず先に、自主性の概念を教え込む等の手法によって、正常な自我を醸成させることが出来ると思っているのでしょうか。 
自主性と言う言葉を自我と置き換えて考えればそんなに単純に、教えて身につけさせられることではないはずです。 自我の未成熟のまま自主性の概念のみが発達した、能力も責任感もない多くの人間が社会に出た時、社会の秩序が崩壊するのは目に見えております。

このような不完全な理念で、子供を教育するなど、弊害はあっても、子供の成長を正しく導くことにはなりません。

成人に達してからも、先輩達の仕事を盗むようにして覚えていったものでした。 年少のころから、少しずつ確実なものを身に付けて、それが自信になり、判断力の根拠となって、他の人からも信頼されるようになりました。

教育の場で「自主性」を云々するのは、如何にして正当な自主性を身に付けさせることが出来るかを、教育者自身が己に問う問題であり、子供に自主性を安売りするものではありません。 まして、事例を与えて子供に実験させて悦に入っているのみの教育現場のあり方は、もってのほかの状況と考えます。 「自主性」にたいする考え方が逆立ちしている様です。

また、多くの一般人が「自主性」と言う言葉だけを、金科玉条の様に思い込み、自主性と言う形容詞が付けば、なりふり構わす、それを容認します。
自主性を否定すれは、たちまち顰蹙を買います。

間違った自主性教育を受けて育った子供たちは、自分の考えを至上と勘違いし、社会の壁に立ち向かったとき、正当な判断が出来ません。
結果、自分にとって都合の悪いこと、上手く行かないことを、全て社会、他人のせいとし、自分自身を省みて社会から学ぶことはしません。
現代社会で若者(すでに壮年の年代)の引きこもりが増え、また自暴自棄は行動に走る人間が増えました。

もっと多くは、職場で生じる困難に敢然と立ち向かう人間が減ってきて来ています。
それもみな、それこそ、本当の意味の「自主性」の欠如の結果です。

戦後の子供に対する、誤った自主性教育の結果、「自主性」の乏しい社会人を多く、生み出しています。

子供に対する「自主性」教育と言うものを安易に考えた文部科学省の官僚たちと、本当の自主性も知らない、大半の教師の間違った指導の結果です。


メンテ
正しい自主性教育とは ( No.24 )
日時: 2020/07/24 12:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nMbh/ObM

前のレス シュタイナー教育の要約

自主性教育には3段階ある

その1 幼児期

  幼児の脳の発達の為に、幼児の脳が思いつく事は、出来るだけ放任し幼児自体の脳の展開を妨げない。
  子供の才能の可能性を広める。

その2 学童期

  ある程度発達した脳に規範を植え付ける。
  自我の未発達な段階で、将来、自我に目覚めたときに考えるべき物事の道理を知らしめる。
  それは、常に身近にいる教師、親が教えることであり、自我が目覚め正しい自主性を身に着けるための栄養のようなものである。
  自主性と言っても、何でもありと言う事ではない。反社会的な言動を自主性と認めるならば、強いてそれを教育することもないで
  あろう。
  思春期に入ると子供でも素直に従わないと言う事を考えれば大人が子供を教育する最後で、最大の環境が学童期であるのだ。
  この時期に、なんでも、かんでも子供の意思に任せるのは、教育と言うもの、全てを否定することで、何のために「自主性教育」
  などと言う。
  具体的に言うと、駄目なものは駄目と言うこと。子供はほおっておいても思春期になると、自分で考え、大人の言う事を聞こうと
  もしなくなる。

その3 思春期(中学生・高校生)

   思春期が自我が発達する時期である。
   自我とは自分の意思を自覚するもので、自我の発達と共に他人を識別する、所謂反抗期と呼ばれるもので表面化する。
   この段階で、初めて自主性を自覚することになり、その人間の性格、生き様を左右することになる。
   それを正しく伸ばしてやるのが自主性教育である。
   具体的には、本人の判断(自主性)を尊重し、見守ってやることである。
   
本当の自主性教育と言うのは、この3段階を熟知していてこそできるもの。

戦後の子供に対する、誤った自主性教育の結果、「自主性」の乏しい(自立できない)社会人を多く、生み出しています。
また何事においても、自分が思うようになる(自主性)と思い込んで育った子供は(学童期の教育を受けていない)、社会に出た時、挫折感を味わい、その後の精神発達にも対応できなくなる。

メンテ

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